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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

随筆 今思う明日 1

この娑婆には、かなしいことやつらいことが、一杯にある。
 だが、忘れるこった、日が暮れて明日になれば…。

随筆

幸せな時間は耐えた時間がつくったもの。
 
 幸せな時間を持っている人たちのすべてが耐えた時間を持ったのか、そこに大きな疑問が生まれる。生まれてすぐに幸せな時間の中にいてそれを享受している人たちもいるかと思えば一生耐えた時間を持たなくてはならない人たちもいる。それを定めという言葉で簡単に言っていいのだろうか・・・。釈迦はそれはカルマであるというが。つまり前世の行いをよりどころにして現世の定めが決まるというのだ。釈迦も人それぞれの生き方の違い、つまり境涯のあり方が様々なことに悩み輪廻転生のならいを説きながら無意識層のあらや識にたどりつきその所為だという結論を述べたのであろうと思う。人に生まれるという事は善行を施して生きた人達なのである。その人のあらや識のカルマもひどくはなかったはずである。
 芥川龍之介の作品の中に悪人が蜘蛛を殺さなかったから仏は地獄からはい上がれる糸を垂れ下がらせて救いの路を開いたと言うものがあるがそれこそカルマによる裁断なのだが、後から糸にぶら下がってくる者を蹴落とす仕草で糸が切れ地獄へまい戻ると言うものであった。慈悲を書いているようであるが来世へのカルマの厳しさを説いている物語として皆読み砕いていないような気がする。慈悲では断じてないのだと思う。
 つまり、幸せな時間は耐えた時間が作ったもの。と言うきれい事はキリスト教史観の楽観的な言葉なのであろうと思う。
 このように一つの言葉の理解においても宗教史観の教義によって異なる判断をとらなくてはならなくなるのだ。
 つまり言葉の力が当事者の心に入り込み作用するのだ。信じる信じないは各人の都合なのである。その様に信じる心の動き、楽になりたいという本能と杞憂をいち早くなくしたいという事があらゆる宗教の発展に寄与したと言うべきなのかも知れない。罪人でも往生できますよと親鸞は言ったが平安末期から鎌倉のはじめ千路に乱れていた世の中では多少の罪を背負って生きていた人が多かったことでそのようなカルマと関係ない優しい言葉を親鸞は語り救おうとしたのではあるまいか。だが、仏教ではあらや識のカルマは絶対的なものであったから南無阿弥陀仏と唱え参らすことでそのすべての罪業も消滅をするという教えを流布して助けたのだ。親鸞は自ら仏教の戒律を犯している。女犯の罪を犯した上人であったからだ。題目をあげる事で許されると言うことは自らもそのことにより救われたいという願いであったのではなかろうか。
幸せな時間は耐えた時間がつくったもの。
果たしてそんな慰めがまかり通る世の中なのだろうか・・・。信じる者は救われる、と言う事なのだろうか・・・。

この歳になると周囲の年上の人がだんだん少なくなる。その人達の過去も忘れてしまうのだ。そのことで悩んだことがあった。



何年かぶりに同窓会の案内が届いた。

学校と言うところにあまりいい思い出がないので喜んで行こうという気にはならない。この様な思いは同窓生の中にも沢山持っていると思う。学校を不快に思う人たちである。その人達はだからといって社会をはみ出して生きている人たちではない。まじめに生きた人たちに多いのだ。幼い心に刻み込まれた記憶はたやすく忘れられるものではない。
 昭和二十四年と言えば終戦して四年、日本が復興に努力していた時期である。みんな貧しくぼろを纏い食べ物に不自由をし暮らしていた時代である。セピア色の小学校の入学式の写真があるがみんなろくな物を着てないし履き物も草履や下駄である。先生は復員してきた人が多かった。代用教員もかなりいた。その人らを恩師に持っているのだ。先生というのが酷かった。授業中戦争の話ばかりして教科を教えてもらえなかった。勉強の出来る子と金持ちの子を依怙贔屓した。そんな中では勉強なんかできるはずもなかった。六年間遊んだ付けは中学校で現れた。勉強のできる子の後にいて遊んでいた子がこれでは大変と勉強を始めた。勉強のできた子を軽々と抜き去った。勉強のできた子はできると思っていただけである。みんなが高校受験の勉強にかかったら小学校で勉強のできた子は取り残されてしまった。唯依怙贔屓の恩恵で出来る子と勘違いをさせられていただけで実力はなかったのである。惨めだったのは依怙贔屓をして貰っていた子達だった。
 そんな教育をした先生を恩師と仰ぎ同窓会をする事になんの意義があるというのかと毎回思うのだ。発起人や幹事をしている友は依怙贔屓をして貰った子ではないのだ。寧ろ無視されていた子達である。彼らだって真実恩師などと思っているわけではなく多少社会で幅をきかし小銭を貯め込んで自慢の一つもしてみたいだけなのだ。そのような面々が名を連ねていた。
 教育環境の最高は教師自身でなくてはならないと言うのが持論であったからそうでなかった先生を恩師とは呼べないし顔を見るのも億劫であった。だから欠席と通知した。社会で幅をきかしている友は無視されていた故に今成功しているとするならば無視した先生は恩師なのであると言うことが出来るかも知れない。彼らは親の後を次ぐことも出来なかったから開き直り苦労をして実学を物にして個性を生かして地位を築いた。かわいそうなのは依怙贔屓をして貰った友で大きな錯覚をさせられ勉強も半端にしか出来ず努力もしなかったから社会で日の目を見ることは出来なかったのだ。その同窓は恩師を憎んでか発起人達に合うのが恥ずかしいのか出席をすることはなかった。
 同窓会の席で好々爺の様に笑みを浮かべている恩師達は今の現状を見てどのような心境であろうかと推察する。
「何々君はどうしているのかね」と勉強の出来た金持ちの子のことを尋ねた。あの子達ならかわいがったので立派に成長し社会的な地位を築いていると思って尋ねたのだが、
「どのような生活をしているのか連絡がありません」と無碍に返されて沈黙をした。小学校で幾ら勉強が出来ても甘やかされて育った子は上の学校で唯の子になると言う事は珍しいことではなかった。ここで自らの慧眼の曇りを気付けばいいのだがまだその頃の事が頭にあって納得はしないのが先生という職種なのである。金は経済の仕組みでなくなると言うことを知らず勉強が出来た子も誠実に努力をしなかったら社会から取り残されると言うことの認識は殆ど持ち合わせていない先生という境涯の彼らはそれを認めようとしないのだ。
 見る目がなかったと認めたくないのだ。罪作りを現実の歪みとして否定するのだ。今自分の前に立ち立派に振る舞っている彼らに屈服はしないのだ。間違っていても誤りを認めない性格なのだ。人間の悲しいエゴである。
 そんな恩師に同窓会でどのように対峙するというのか。酒が出ると今までの不満が爆発する。自慢話の応酬である。恩師達は痴呆症の患者の様ににこにこと微笑んでいる。てんでんバラバラの会の進行が続くのである。こんな時には時間の経つのが遅くなり何時終わるのかと終会の挨拶を待つのだ。こんな会なら出るのではなかったと思いながら帰路につくのだ。アルコールで麻痺している頭で幼かった頃の思いを振り返りほくそ笑みつつ苦い思い出を作ったと後悔しながら・・・。
 
 
 視力が・・・。
最近視力が衰え始めている。パソコンの字は読めるのだが薬の効能やいろいろの説明書の字がぼやけて読み取れない。めがねがなくては駄目な歳になったか、元々近眼であったが五十歳くらいでめがねをかけなくても免許更新が出来てそれからめがねをかけることがなくなっていた。小さな活字でも裸眼で読めたのだ。が今ではとてもめがねがなかったら読めない。歳であると言うことが眼に影響し衰えたのだ。耳は気圧の関係で響くようになっている。不安定な気圧の日には耳が遠くなるのだ。これは歳の関係でなく鬱の所為かも知れない。だが、おかげさまで歯は入れ歯ではない。歯だけは終わりまで自前でと思っているが・・・。早めはやめに医者に通って見て貰っている。
 通っている歯医者さんは近くで何代目かの太っている先生である。
歯医者にしても医者にしても相性と言う関係で成り立っている。同じ薬を貰っても相性のいい医師から貰うと治りやすいと言う・・・。相性とは信頼に通じるのかも知れない。内科は何処、目医者は何処、歯医者は何処、耳鼻科は何処とこの歳になると常にどこか悪いので決めている。緊急でない限りよそへは行かない。昨年かかりつけの目医者の先生が歳で閉院した。行って直ぐに診て貰えるというあまりはやっていない医院だったが今まで眼がおかしいと診察をして貰ったが適切な治療で直ぐに治っていた。人はその医院を藪だ株だと言ったが私にとっては名医だった。早くて安い、そして話が面白く、
「まだまだ大丈夫。眼底の血管は若いよ、両親に感謝しなくては」
と言葉を薬と一緒にくれた。今様の最新設備はなく古びた診察室だがなぜか安心感が生まれるものだった。耳鼻科も四十年診察室は変わらない。歳で何時閉医院するか分からない。
「手が震えたらやめるよ。今やめたらうちで働いてくれる人たちを路頭に迷わすからやるだけはやるよ」と言いながら闊達に胸を張る。
 医者さんとの交流が命を長らえてくれていると思う。有り難いと言葉を落とす。
 我が家は私のホームドクターにみんなかかっている。家族ぐるみの関係になっているのだ。
 歳を取ると言うことは医者さんと沢山知り合いになると言うことのだ。
 鬱に罹ったときには鬱と分からずに沢山の医院に出かけそれぞれの診察をいただき様々な薬を飲んだが効かなかった。心療内科にたどり着き薬をいただいて飲むと嘘のように効いた。薬は何でもいいのではなく病状にあった薬があることを知った。それでも二十年間は鬱と仲良くしたのだ。小説家で医師の南木佳士さんは小説を書くことで治したという。小説家の宮本輝さんは一人でいることが不安で何処に行くのも奥さんと一緒の生活をされていたのだけれどどうされているのだろう。その症状は鬱に間違いがない。最近は新刊も出ているから良くなっているのか。私の場合は台本を書き演出をして動き回り心療内科の薬を飲んだので良くなったのだが・・・。車の運転は出来なかったので隣にスタジオを建て練習を見るという大金を使ったけれども鬱の症状のつらさに競べたら安かったと言えるだろう。最近は鬱の症状を見分ける医師達が多くいて直ぐ治療をしくれる程有名になっているので治りやすいが昔は普通の医者達では見抜くことが出来なかった。羽田で飛行機が滑走路をオーバーランした機長が私と同じ薬を飲んでいたのが分かり鬱で飛行機を操縦していた事実を知り、またそのことで鬱という病名が広く世間に認知されることになった。
 遊び人でも鬱になるのだから誠実に仕事をしている人は尚罹りやすいと言う事になる。今鬱の患者が沢山いるが、横着病と言われたら診療内科を訪れることである。
 鬱の苦しさは鬱になった者しか分からない。
 今、どこかが悪いと言っても良くきく薬があるし・・・。眼が衰えた、耳が響く、喘息が、血圧がと言っても鬱の何とも言えない気分に競べたら辛いが絶えられるように思う。
 今日、一ヶ月に一度の診察日、血圧と胃の薬をもらいに行くのです。


食欲の秋

 読書の秋とか芸術の秋とか人は言うけれどやはり食欲の秋。
「夏痩せもせずそんなに太っていても食欲の秋ですか」と人は言うけれどやはり食欲の秋なのです。何でも美味しく食べられると言うことは健康の証と思っているからなのです。
 次男が結婚して家人と二人だけの食卓、料理を作るのも侘びしい二人前の食材。だから余計に色々と贅沢をすることなく工夫をして作るのです。この夏の暑さには体がついて行けずにスーパーで弁当を買って来て夕餉にしたり、洒落たレストランに行き海老やハンバーグやカツを頬張ったのです。年寄りが食らうといつてもたかが知れていて二千円もあればおつりが来るようなものを食べたのだ。たまにはいいものだったが、それはだんだんと飽きて満足できなくなるから人間の性根というものは度し難い。外食をするために外に出るのだが色々と迷って決まらず家に帰りそうめんを食らうと言うこともしばしばであった。
 買い物好きだから食べたいというものは冷蔵庫や冷凍庫の空きを考えず買うから何時も一杯で家人に文句を言われるのだ。
「こんなに買い込んで二人しかいないんですよ。冷凍焼けをするからもう買い込まないで」家人はやれやれといった風情でつぶやく。
「冷凍して秋に食べるために買いだめをしている。このような気候変動の世の中では何時なんどき食材が不足してもおかしくはないからして備蓄をしているのだ」と、終戦後の食料不足を経験しいているからついついそんな言葉が突いて出る。冷蔵庫に、冷凍庫に食材が一杯詰まっていると言うことは我々の世代では至福なのである。これが食欲の秋の有様である。食うものの恨みは恐ろしいと言うが戦後の何もなかった頃のことは頭と腹にこびり付いて忘却の彼方という事にはならない。食い汚いようだがおかず二品にご飯は茶碗の半分が適当。幾ら食欲の秋と言っても言うだけでそんなに食べられるものではないのだ。言って胃液の分泌を良くするだけ。まだサンマを買うのを忘れていると食い意地を働かせている。嫌いなものはなく食べ残しは絶体にしないという勿体ない精神は食糧難の産物か。
 そういえば夏にはあまり食べなかった飼い猫の九太郎が最近よく食べるようになった。こやつも秋の気配を腹に感じて食欲が増したらしい。こやつは今まで何遍も尿路結石を繰り返しその都度犬猫病院の玄関をくぐり福沢諭吉を何枚も使うという困った病気持ちなのである。だから予防食をあてがっているのだがそれがまた高いのである。二キロ入りが三千五百円、私の一ヶ月の治療費が三千四百円なのであるから同等なのである。安い猫食を食べさせるとたちまち小便を詰まられてのたうつからやれない。犬猫医院へ連れて行けば血液検査やカテーテルで膀胱の血尿を抜くために福沢さんと別れなくてはならないから三千五百円を安いと思うことにした。そんな九太郎が秋の気配を感じて猛然と食べ始めたのだ。食欲の秋を実践しているのは最初は彼であった。
「糖尿が喜ぶ体をしていますね」と太っている体を見てかかりつけの大先生は常に口にするがその気配は今のところないのだ。院長からは検査をしますかと言う言葉を聞いたことがない。密かに毎日ドリップで入れた珈琲を十杯は飲んでいるのでそのおかげなのかも知れないと思っている。珈琲にはうるさい通を自認しているのです。
 何でも美味しくいただける秋、秋だけでなく年中なのであるが。
 鬱を患っているときには食欲は落ちたが太っていた。鬱を患っている人は大概太っているものなのです。心療内科の待合いには太っている人たちで一杯でした。年中物思う秋だけではなくあてがわれる抗うつ剤を飲むと副作用で太るのです。鬱はうつるのかと、最初に夫がボーとして診察室に入っていたが次には付き添っていた妻の方もボーとして一緒に診察を受けると言うことはまれではなかった。夫婦が鬱の患者をたびたび見かけましたから。うつるのでなく仲が良すぎるのでしょう。うつることは決してないのです。
この二週間前から風邪を引いて風邪薬ばかり飲んでいたら頭痛がとれなかったのですが風邪薬をやめていつもの安定剤を飲んだら少し頭痛がとれた。デパスとかセルシンは精神安定の頓服だが頭痛に効いていたとは知らなかった。
 鬱のなれの果ては今秋を感じてよりものを美味しく食べています。十三キロのダイエットをキャベツでしましたがすっかりともに戻りました。今太っているのはまだ精神安定剤を飲んでいる所為にして太っても気にせずに美味しいものを食べようと思っています。時に読書をしてみたりして・・・。暑かった夏に決別して秋を楽しみたいと・・・。

車考

四年前に大きな車から軽四に乗り換えた。昭和三十年代の後半の車と競べたら高級車並みだ。その頃の車はウインカーは直ぐ壊れて曲がるのに窓から手を出してウインカーの代わりをした。ワイパーも付いているが動かなくなってぞうきんでガラスを拭かなくてはならず、坂道ではのろのろ運転をし、ブレキーはダブルに踏んでもあまり効かなかったし、チェンジはなかなか入らなかったりした車であった。中には雨漏りのするものさえあったのだ。嵯峨の渡月橋の上をスターがダッチを得意げに走らせていた時代である。アメ車も良く故障をしていた。
 家人をのすだけなら軽四で十分と買い換えたのだ。なかなか買い得でこれなら遠出も出来そうで瀬戸大橋を渡って墓参りをした。よく走るしスピードが出ても重心を道路にへばりつかせて安定する仕組みになっていた。これなら何もプリウスを買う必要もないと思った。車がなぜ必要かと言えば持病の鼻と喉の治療に毎日行くためであった。歩いても二十分という距離なのだが鬱がまだのこっていて不安だった。
「車でなくても電動補助自転車にしたら」と家人が言うがそれには二人乗りは出来ない。家人とたまにチャイルドシートを付けて孫をのせ病院へ行ったり買いものに行ったり出来ればいいと言うことなのだ。
 退職して大きな車を買う人が多いがそんな見栄は当方は持ち合わせていないから軽四でへっちらである。年寄りは運転が下手になっているので万一の時を考えれば大きな車に限ると心配してくれるがよけいな世話である。そのときは立派に往生して見せようというものである。たかが数キロの耳鼻科へ行くのにまだまだ腕は衰えてはいないと啖呵を切る。何も高速を百二十キロで走るのではないのだから。軽四に乗り始めて性能のすばらしさに感心しいる。それは昔の車と比較しているのではない。四年間一度もトラブルがないのだ。
小さくて安いしよく走り燃費もいいとなれば文句はない。小さいと言っても普通運転免許を取ったのはこれくらい大きさの昔のダットサンであったのだ。自動車学校もなかった時代一発で取ったのだ。
 最初に買ったのがコロナ、次もコロナのハードトップ、家人を乗せてよく走ったものだ。ガソリンは食ったがよく走った。次に買ったセリカは良く追突されて相性は良くなかったので直ぐにマーク2に買い換えた。これは横腹に追突をくらい半年病院通いをした。鬱の原因がここにあったといえる。数年後鬱の症状が現れだした。最後はクラウンというコマーシャルが流れていた時期であった。鬱の症状では車に乗るのが難しいがスカイライン、トップエース、マスターエース、マーク2、コロナ、サニー、トリノ、フロンティ、セルボ、ミニカー、スターレット、カローラ、ロゴ、ローレルなど常に二、三台持っていた。駐車場に持ってきて貰って欲しいと言うことで貰ったものが多かったのだ。最後はクラウンとは行かなかった。クラウンは好きでなかった。人相の悪いおっさんが乗っているとやくざに間違われるおそれがあった。一人では不安で乗れないから家人を助手席に乗せて走った。今でも時折うつの気配を感じて家人に声をかける。鬱が良く為りつつあっても大きな車に乗ることはしなかった。一人で乗るのだからそれ相当でいいと思っていたからだ。大きな車に乗りたいと思わなかったし興味がなかったといえる。走って目的地に着けばいいという考えだった。走れば何でも良かったのだ。再発売をしたセルボを買ったのです。最初のセルボは好きだった。マーク2を乗らずにセルボで親子4人がのってよく走ったものだ。坂道などぐんぐんとスピードを上げて登ってくれた。それ時のことが頭にあり買ったのだった。
 車社会もう後どれほど持つか・・・。車は人類が発明した最高のものである。が、あってもなくてもいい時代が来ようとしているのは確かであろう。だが田舎都市にはやはり必要なものだ。電車がないバスはないあるのは自転車くらい。都会の車離れが顕著だと言うがそれは当然だと思う。乗り物は幾らでもあるし車を持っていると九種類の税金を払わなくては乗れないのだからそれが最良だろう。地方の人はそれに任意保険を払って十種類の税金と保険の支出で乗らなくてはならないのだ。車に対してこんなに税金を払っているのは日本くらいだ。贅沢で金食いだ。電車の環状化とか定期バスの増便、自転車道路の整備、をおろそかにしているのは国民に車を使用させて税金をふんだくるためなのかと邪推したくなる。大臣どもは専用車に乗ってふんぞり返ってほくそ笑んでいるのだ。年給一千万円の運転手の運転する車に乗って国会議事堂へ登院しているのだから国民の事などわかりゃしないのだ。
 我が家をリフォームをするときにクラウンを一台ぶつけた。車をぶつけて使えなくなったと思えばリフォームの金は安かった。大きな買いものをするときには車をぶつけた気になって命があるだけ丸儲けと思うことにしている。孫達が大きくなっているので増築をしなくてはならないが今度はどんな車をつぶけてつぶそうかと思案である。
 今は運転しているが後何年車を転ばすことが出来るだろうか。今その予兆が出てきている。駐車がまっすぐに出来ないと言うことなのです。そろそろ運転免許の返上を考えなくてはならないのか。
 四十年前、一日一万円のハイヤーに乗って東京を走り回っていたが地図がさっぱり分からなかった。歩いてみると直ぐ地理は理解できた。
 人間には足がある。これからは歩くに限るのか・・・。年寄りの冷や水だが・・・。




 年寄りの冷や水

「頭から水をぶっかけられたようで目が覚めた」
 何か良くないことを夢中でしていてそれに気づくことをそのように言う人が多い。年寄りには年寄りの冷や水と言う言葉がある。年寄りの冷や水とは歳を考えずに色々と出しゃばることらしい。
 今の年寄りは七十五歳くらいからか、それまで矍鑠とした年寄りが多い。昔の五十五歳ぐらいにしか見えないのだ。五十五歳で定年だったから後の時間をどのように生きたのだろうかと言っても今の様に長寿ではなかった。平均寿命が六十幾つという時代であった。その頃の人たちは戦争を挟んでいたからろくな物を食べていなかった。サツマイモでも食べられたらいい方で麦飯のお粥をすすりうどん粉を練っただんごを味噌汁に入れて食べていた。結核が死の病とされ、脚気やトラホームが多かった。栄養失調は慢性であった。
「飯食ったか」が挨拶言葉であった。
 そんな時代を一生懸命に仕事をし家族を支えたのだから老後は安穏に過ごせたかと言えばそうではなく僅かの年金で細々と生き六十歳を過ぎて逝った。
 そんな時代があったのかと思う人も多かろうがあったのだ。
 みんなが食えない時代の後、高度成長があり三種の神器を買えるようになり豊かになっていった。が、そこで日本人は大切な物を置いて成長したのだ。貧しかった頃には友を思う優しい友情があり、未来への夢が沢山転がっていたのだ。が、金を儲けるという裕福さだけを求めだしたのだ。自分のことしか考えない生き方を物にし出すと他人のことなどどうでも良くなり自分の利益にならない物は斬り捨てていった。学問を身につけることが財産をもたらする原点だとすると親はこぞって我が子を学校へ入れた。子供の言い分など聞かなかった。
「学校を出てなかったから出世もできなかったのだ。おまえだけは学校へ行き成功し金持ちになれ」子供の才能や学力を置いて行かせた。勉強について行けない子らはそこで挫折をした。先生達も教育の最高の環境ではなかったので見ているだけであった。
 行ってみればそれが今まで続いている。今の方が酷いかも知れない。自分の学力のことなど忘れて学校へ行きたがる子供達が増えたという点で。その程度の子が大学を出てもろくな就職口があるはずもなく挙げ句の果てにフリーターやニートになって失業率を上げているのだ。昔と違って親やが裕福だから親にぶら下がって生きている若者のなんと多いことだろう。
 他人はどうでもいいというのは、昔貧しかった頃の辛苦を友した人たちをいとも簡単に遠避ける傾向がある。「なんとか賞」なる物を貰うと今までの仲間を捨てるのだ。自分の過去を知っているから都合が悪いのだろうか。女たらしがばらされるとか、交通事故で子供を殺したとか、なにも知らないのがばれるとか、自分の悪い噂を遠避けて守るのだ。これは教育でなく人間の有りのままの姿であるらしい。
「良かったね。苦労が報われて本当に良かった」とあったら言おうとするが顔を背けられる。苦労をして賞を物にしたのなら少しは人間として成長しているかと思うがそうではない人たちが多い。なんと世知辛い世の中なのかと。そんな人間が文学賞の審査をしているのである。これが世の中という物であることを知った元になっている。何が狂わせたのか、何か悪いことをしたというのかとこちらが心痛めるのだ。知識人ですらそのような現実なのだから外はおかしくなっても不思議ではない。 
 昔、私のいたころの東京は山の手線は朝夕の通勤時間を除けばがらがらで何時も吸われ寝過ごして一周することが出来たが、今はウイークディーの何時の時間でも満席で座ることすら出来ないのだ。それだけ親のすねを囓って生きている裕福な家庭の若者が増えていると言うことなのだろう。漢字も九九も分数も出来ず名前だけ書けば合格出来る大学がなんと増えていることか。そんな子らにもその子しか出来ないことがあるのだから大学へ行かすよりその路へ行かせた方がいいと思うが親としたらそうはいかないらしい。夜中にパートをしてそんな倅のために働いている親の姿を見るのも辛い。そんな大学が増えた分だけ教育助成金がみんなの税金で払われているのだと言うことを殆どの親や子も知らず親は自分が大学を出したと思っているのだから救われない。子も親が出してくれたおかげで大学を出ることが出来たと思い世の中に帰そうという気にはさらさらならない。中学校や高校を出て働いている若者から税金を取るなと叫びたい。かたや大学へ行き勉強もしないで遊んでいる学生は彼らが納めた税金を無駄遣いして遊んでいるのだ。おかしくないか、矛盾していないか、これは憲法違反ではあるまいか。大学を卒業する二十二歳まで若者は無税にすべきでではないか。中には國のために勉強してみんなを幸せにすると勉強をしている者もいるだろうが大半はそうではないのだ。子供手当で少子化がどうにかなるという物ではあるまいし高校無料化で高校生の学力が上がるとは信じがたい。ある基準に達している子に無償の奨学金を出し心おきなく勉強が出来る環境の整備こそが必要ではないか。待機児童の保育園や幼稚園があることがおかしい。子供手当で無料化のそれらを作るべきなのだ。ややこしい役所の権限を取り払えば直ぐに出るはずだ。
高校の無料化など高校までを義務教育にすればいいのだ。だが財政的に無理な子は夜間高校もあるし通信教育もある。大検もある。
 まず金儲けの大学を減らすこと。学校法人を減らし新しい法人は認可しない事なのだ。
 いままで沢山の人たちと演劇作りをしてきたが、第一義に人間教育を掲げた。演劇も教えたがまず挨拶を徹底的に仕込んだ。集団が出来ればそこには演劇が行われるのだ。演劇をする前に人間のなんたるかを知らないと表現が出来ないのだ。勉強もみんなで勉強をした。発生練習に九九を歴史年譜を化学記号を入れた。台本は子供達にも難しい漢字を多用して辞書で調べさせた。今それぞれに立派な社会人になってくれている。
 一芸の人もいる、漢字が読めなくても絵だけはうまいとか音楽的素養がある。手先の器用な子もいる、それらはそれぞれの路に進めばいいことなのだ。一芸の大学がある。その才能を見つける眼が現代の教育現場には失われていると言うことだ。
 これは悲しい現実ではある。
 昔こんな事ばかり書いて読者から抗議の投書を貰い水をかぶせられたのだが・・・。
さて、ここまで書いて頭から冷水をかぶって休むとするか・・・。
 


歴史の空白が・・・。

 昔、良寛さんを書いて舞台へ上げたことがあります。一応資料は集め読み砕いたのですが何か判然としないもがあり「僧にあらず俗にあらず」の言葉通り普通の人間僧侶として書いたのです。曹洞宗の光照寺で国仙和尚に依って御受戒を受けて出家をしました。良寛さんは国仙和尚さんを一生の師匠として岡山は備中の僧堂円通寺にお供をしそこで僧侶の修行をするのです。円通寺での良寛さんのことはなにも残っておりません。何も残っていないと言うことはどのように嘘八百を書いても文句が出ないという事なので色々と考えを巡らせ創作をしたのです。そのように空白があると言うことは物書きにとって有り難いことで何でも書いて良いですよと良寛さんが言っている様に感じて書かしてていただきました。出雲崎では良寛さんは童貞であったという説があるのです。大庄屋の跡取りであった良寛さん庄屋見習いの時に嫁を貰って直ぐに離縁しているのです。一女があったという説もあります。が、立派なご僧侶がバツイチでは良寛様の名に傷を付けることを案じてか童貞であると言うことなのでしょう。円通寺の事と、新潟は長岡の閻魔堂の貞心尼との心の交流も嘘を積み重ねて書きました。これは貞心尼が良寛さんとのことを歌で詠んでいる「蓮の露」がありましたが中に創作をさせていただきました。
 このようにして歴史の空白があれば書き手は自由に書くことが出来るのです。
 西行法師さんも書かして貰いました。舞台で上演しました。西行さんと待賢門院璋子さんとのことは女房の待賢門院堀河の語りとして直接に西行法師さんを書かずに西行さんを書いたのです。待賢門院璋子さんは鳥羽帝の女院でした。堀河さんは小倉百人一首で有名な歌詠みです。 璋子さんの幼い頃から亡くなるまで女房として仕え何もかも分かっていたとして璋子さんと西行さんとの恋を語らせたのです。西行さんは好色家と言えば西行さんのファンの女性の方に怒られるやも知れませんが大変にもてた方であったらしいのです。花と月は西行さんの歌のテーマのような物ですがそこに女を加えてました。恋の、人想う歌も多かったからです。西行さんがどうして鳥羽帝の北面の武士を捨ててなお得度したか、それには待賢門院璋子さんと一夜のちぎりをもちそれが一生に一度の恋に想え苦悩の末に絶望したことが原因であったと言う説を取り入れ、ものの哀れを感じたと言うことにしたのです。親友の突然の逝去故にという説もありましたがそれを採りませんでした。劇中の会話はすべて創作をしました。瀬戸内寂聴さんや辻邦生さんや白州正子さんにしかられる事でしょう。
 北面の武士佐藤義清、歌人西行法師、法名円位上人が西行さんなのです。平清盛さんは西行さんと鳥羽帝の同期の北面の武士であったのです。
 目が不自由だったが居合いの手練れがいた。という子母澤寛の短い文章で「座頭市」が別の作者の筆で生まれると同じようにと言う風にです。
 坂本龍馬さんも舞台にのせました。
「金のなか人間に何が出来よっとぜよ」金に執着した龍馬さんを作りました。大法螺吹きにしました。なぜか龍馬さんを書いているとき愉しくなかったのです。あまりに完璧な龍馬さんを皆さんが書いている事に対する反発がありました。
「日本の國を洗濯しちゅうきに」
 この龍馬さんの言葉はあまりにも有名ですが洗濯する為には金がいることに気づき金集めに奔走する龍馬さんにしました。金持ちに取り入るのがうまい人として書きました。高杉晋作さんは策士で、中岡慎太郎さんに龍馬さんはこういうのです。
「高杉は喰えん奴じゃきに気をつけーや。泣いて助けてくれーというても知らんきに」
 今、NHKで「龍馬伝」放送しているが、龍馬さんと岩崎弥太郎さんとは長崎で初めて会っているのにあんなに何もかも知っているのはおかしいのです。ここは中岡慎太郎さんが流れを作り進めるということのほうがよかったと思います。龍馬さんと中岡慎太郎さんは質屋の二階で惨殺される。その暗殺者を人斬り半次郎さん、示現流の居合いの達人に仕立てたのです。これは西郷吉之助さんの意であったとしたのです。薩摩は龍馬さんを殺さければならない怒りがあったとしました。司馬遼太郎さんにしかられそうです。
 龍馬さんを時の人として薩長連合、公武合体、大政奉還。
 誰かが仕組んだものではないかとしたのです。
 お竜さんは龍馬さん亡き後横浜の豪商と再婚しています。
「人とはなんと悲しいのでしょう」お竜さんはそういいきります。
 書き手は時代の空白を書く。一瞬を語るのだと思います。書いてしまえば書き手の手元から離れ一人歩きを始めるのです。
 良寛さん、お元気で子供達と手まり歌を歌いながら遊んでいますか・・・。
 西行さん、大仏復興の勧進帳を持っての旅どうでした・・・。
 龍馬さん、まっこと誰に殺されたじぇよ、ぎょうさんの説で学者も困っているきに・・・。
 ここには書かないが「荒法師文覚」も書いて上演しました。
 もう懲りたので歴史の人物は書かないことにします。物書きは多分に誇大妄想症であり詐欺師な要素を多分に持っているものなのです。
 


こんな事も良くあった

「お客さんですよ」という家人の声が聞こえてきた。昼前であった。ついさっき起きたばかりで頭はまだ朦朧としていた。
「誰だろう」ぼけた声で聞いた。
「初めての方です。用事がある様子です」
「新聞、テレビはこの前ですべてすんだはずだが・・・」
 同人誌の中から文学賞を貰った人が出て取材攻撃を受けた後であった。本人と編集責任者の私に取材がきたのであった。紙面を飾り
映像が流れた数日後であった。
 家人の喫茶店に出ると入り口に若い男が立っていた。
「何か」と問うた。男の手は大きな茶封筒をぶら下げていた。
 おいおいまたかよ、原稿を読めというのではなかろうかといやな予感がした。
「まあ、座って」
 無口なのか返答もせずに入り口のそばのテーブルについた。
「それで私に何か・・・」
「あなたが小説を書き編集をしていると新聞を読みました」
「プロではありませんよ」
「分かっています。これを読んで感想を聞かせて欲しいのです」
 テーブルに茶封筒をどすんと置いて原稿用紙の束を引き出して言った。
「つまり読んで感想をと言うことですか」
「はい」
「私から感想を聞いてどうなさるのですか」
「感想しだいであなたの技量が分かり作家としての資質も分かりますので」
 この男は私をテストしようとしているのか・・・。
「これは参りましたな、そんな経験はありませんので」
「読んでください」男は私の前に原稿用紙百枚はあろうものを置いた。
「まあ、そんなに言わずにここは喫茶店です。何か飲み物を注文してください。ここで原稿を読むことは良くありまして、あなたのように持って来られるのです」
「分かりました。ジュースをください」
 ジュースと私が飲む珈琲を頼んで原稿をめくった。
 原稿の書き出しと三枚も読めば作品の良否は分かるのだ。書き出しの一行で男のレベルが読めた。後の百枚を読むのは苦痛以外の何ものでもない。


 道場破り


 私たちの若かった頃には何処の県にも何団体かの文芸同人誌があった。全国で言えば千は下るまいと思う。そのすべてが「文学界」「文芸」の同人誌批評にいかに取り上げられるかを目指していた。私も同人誌を二つばかり作ってはつぶした。編集責任者をしていて同人の原稿を編集委員と読んで協議して掲載作を決めていた。朝日、毎日、読売新聞「同人誌批評」や「文学界」「文芸」の同人誌批評に毎回取り上げられるという同人誌に育っていた。レベルは高かったと思う。同人の何人かは地方の文学賞をものにしていた。懸賞応募も盛んであったが殆どの人が二次三次まで残っていた。
 そんなときに良く同人以外に原稿を持ち込んで読んでくれと言うことがしばしばあった。その人達を道場破りと呼んだ。
 持ってきた人の前で原稿をめくる。殆どが一枚目でがっかりした。
三枚も読めば作者の力量は読み取れた。そんな時に持ってきた人は私の目と手の動きに注視していたから格好だけでも真剣に読んでいる振りをするのだ。読みながら何か言わなくてはならぬ事にいらいらし疲労は全身に及ぶのだ。苦痛以外の何者でもないが前で真剣に見詰めているのでかわいそうになって読んでいく。三枚で作品の善し悪しは決まっているものを後何十枚も読まなくてはならぬ事は地獄以外の何ものでもない。
「どうか忌憚のない意見をいただきたい。どんな批評にも耐える自信はありますから」と言われても小説の態をなしていないものをなんと言えばいいか困ってしまう。ここから持ってきた人と私の心理的なやりとりをしなくてはならないのだ。本人は素晴らしい小説だと考えているのか、これを小説と言っていいのか、何処を直せば良いのか、どのように書けばいいのか、どれに迷って持ってきたのかを判断しなくてはならなくなるのだ。心の底を観察する。どのように本を読んでいる人なのかは読めばある程度分かるのだが、本を師匠としている場合読んだ作品、作者の癖が出るものだからだ。読み進んで行く中でどこか良いところはないかとスケベー心が生まれてくる。優しいいい人を演じようとするのだ。
 同人の場合には、特に掲載する作品にはとことんつきあい話し合い書き直しを要求するのだが、道場破りの彼らにそこまでする義理はないのだ。そんなとき私が何も分からずに原稿用紙にむかっていたときのことが頭をよぎるのだ。良い読み手がいてくれたのでどうにかこうにかやってこれたのだが、そのような人がいない彼らの良い読み手になってあげたいと言うのも資質の面から出来ないことが多い。つまり才能がないと言うことなのだ。努力して才能を芽生えさせると言う方法もあるが、文章はうまくても作品を誰に読ませたいか、何を伝えたいかというテーマがはっきりとしていないものが多かった。そんな人は多分に小学校の頃に作文が上手だと先生に褒められた人が多いのだ。作文がうまかったという人がプロの小説家になっている例はそんなに多くないのだ。
 私は前に資質と言う言葉を使ったがすべての人は物書きに成れると思っている。本を読み砕いてもそれを生活の場で実践しなくては書き手としての血肉にはならないのだ。宗教に例を取っても聖書や仏典を読んでも生活の中でそれらを使いこなせなければ聖人には成れないと同じである。そこに勘違いがあると思う。つまり読んだものを何時までも覚えているのでなく生活の中で生かさなくては、唯面白かった、良かった、感動した、では駄目なのだ。それを文学的生活と言う言葉でやりとりをしていた。実践すると言うことは感性、雅性を作り、社会のあらゆる常識道徳を取り込み、自分の生き様を作り上げるというものなのだ。そこまでくると知らず知らずに文章は書けるようになる、テーマも自ずと生まれる。つまり降臨なのである。
 そのような考えを巡らしながら読み進んでいくのだが何処にも目新しい表現には出会わなかった。良くある常套句の氾濫である。
「銭にも棒にも引っかかりません。駄作ですと言うより作品以前です。ものを書くのは諦めて何か外に興味を見つけられたらいかがでしょう」こんな言葉は絶体に言えない。
「大変だったでしょう」
「はい。寝ずに書きました」
「一日中書かれたようですね」原稿用紙だとペンにしても鉛筆にしても字の乱れが現れるもの、日を置くとそこから字は立ち上がってくるのでそう言った。
「それでどうでしょうか」顔を引っ付けるように前のめりで聞いてきた。
「この作品をどこかへ応募しようと思っておられるのですか」
「はい」
 言ってみれば殆どの文学青年はこの程度であった。
 身辺雑記のようなもの、このような恋愛をしたいという願望もの、今までこのように生きた事をを書いたもの、苦労話、戦記物、そのほか色々様々な原稿を読まされた。道場破りの一本勝負で。
「まあ、石の上にも十年と言います頑張ってください」三年を十年と言ってお帰りを願った。
 道場破りには負ける事にしていた。同人になって欲しい人とは巡り会わなかった。
 応募原稿を雑誌社の編集者が読まなくなったのは時間の無駄を省きたかったのではないか。一行三枚で判断して捨てる原稿が多すぎたのではあるまいか。今、応募原稿は下読みやが読んでいる世の中らになっている。
「売れる原稿を書いてください」
 私は若かった頃編集長にそう言われた。が、売れる原稿は書いたことがない。私にとっての必然しか書かなかった。
 今、ブログにはあらゆる分野の小説が氾濫しているが良いものを書く人に出会ったのは五名程なのである。
 一昨年、昔の同人誌仲間が「内田百けん文学賞」の随筆で受賞した。続けている仲間がいたことを喜んだものだ。
 書くことが夢だとするとその夢を一生持って生きていくのも悪くないと思う歳になっている。

ありがとうございました。むろん承知して書きました。私のことはそばにおいてと言われそうですが、排気ガスのにおい、酔っぱらいの息の臭さにはたばこのにおいと共通するものがあると考えています。若かったころ外人女性の歌手のお守をしたことがありました。とても耐えられない体臭でした。吐き気がしてたまりませんでした。その体臭を消すために強烈な香水をバラまいていました。自分の匂いは気が付かないものです。こう言って私を擁護は致しません。書斎で吸います、衣服も匂いのしみこまないものを心賭けています。会議などでは常識を心得ています。禁煙家と喫煙者が話し合い互いのマナーを心得る、たばこは他人に迷惑をかけない、酒飲みは深酒をして迷惑をかけない、なるべく排気ガスを出さないでぜんそく患者を増やさない。私はco2の削減が地球上の生物の絶滅を呼び起こすという考えですので、禁煙者の人たちが排気ガスを出しても構わないがその人たちの中には地球温暖化を阻止するひとたちがおおい、リベラル、自由の考えには相いれないないものがあります。喫煙は個人的な問題ですが、たばこの販売を許可している政府に対してモノ申して、その並行で禁煙活動を進めていただきたく思いますが…。


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